2021年10月26日なぜ経営者として【考えること】が苦手なのか?
■日曜日はなんとか仕事に目途をつけ、
娘たちの通う学校へ。
この大自然の中にある学校は、
少人数ではありますが、
【その大自然の環境下において、
一人ひとりが考えながら個々を尊重し合い、
行動をしていく】
という場所になります。
集団教育とは違い、
【個々の選択により自由に行動ができる】
と考えられる一方、
逆に言えば、それぞれがしっかりと
自分の意見を持って行動を決めないと
いけないため、
【場合によっては過酷な環境である】
とも言えるわけです。
■その中で、
その学校の先生が
仰っていたことなのですが、
「真の学習とは、問いを与えられ、
それに対する回答を
反射的に出すものではなく、
その問いに挙がっている言語と、
自分自身に内包されている
『感覚や感情、イメージ』
といった経験を明確に結びつけ、
その問いの言語と、
そういった感情や感覚、イメージが
結びつくことにより初めて、
【真の理解】
となり、その理解を得ること
こそが本来の学習である」
ということ。
■そのようなことから考えると、
確かに我々が『真に理解した』
と考えるものは、
【明確なイメージや感覚や感情】
がそこにあり、
それに基づいて情報を処理した結果
具体的に理解していると言える
ものではないか
と思う次第です。
そしてそのような感情や感覚、
イメージについては、
これまでに
【自分自身が培ってきた経験】
から来ているものなんですよね。
そのように考えると、
【毎日の生活そのものが大切になってくる】
というものではないでしょうか。
■しかしながら、
私自身のこれまでの
過去を振り返ってみると、
少なくとも学生時代は、
『自分で考える』ということなく、
いろいろな場面において
【先生から言われたことに従い、
素直に行動する】
ということが
正にされていたように感じます。
そのような環境下での教育だったため
(全てがそういった原因とも言えませんが…)
思考や脳の回路は極めて
閉鎖的になってしまっており、
【自分で考える】
ということが苦手なんですよね(汗)。
■そしてこれは、
少なからぬ経営者の方についても
同じことが言えるのではないか
と思うんです。
私は仕事柄いろいろな経営者の方と
お会いするのですが、
経営者として
【思索をすること】
は何より重要である
と分かっている一方、
その『思索をする』ということは
【案外疲れるもの】
であるため、どうしても
蔑ろにしてしまいがちなもの。
そのそもそもの原因を考えてみると、
そういったこれまでの
【考えることを習慣にしていない経験】
に紐付いているのではないかと、
その先生のお話を聞いて感じた
ところなんですね。
■そのように考えると、
経営において
【考えることは毎日の行動の積み重ね】
ではないかと感じます。
経営においては毎日の
時々刻々の時間こそが、
まさに修行の場であり、
【この修行の時間を
自らの感性を研ぎすまし、
考え抜く時間に使うこと】
により、
より洗練された経営の学びや
理解に繋がっていくもの
ではないでしょうか。
■今回は、
娘たちの通う学校を通じた
『教育』についてのお話を伺う中で、
「これは経営にも直結するな」と思い、
そのことを記事に認めさせて
いただきました。
経営者として
【考える】
ということ。
これは案外難しいというのは、
【そもそものこれまでの自分の行いに
問題がある点があったのではないか】
というところですので、
しっかりと今後は
自分自身の行動を戒めつつ、
有意義な『修行の場』として
日々を過ごしたいものだと
思う次第です。
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《本日の微粒子企業の心構え》
・真の理解や学びとは、
【目の前の問いと、
自分自身の感情や感覚、イメージとが
合致することにより初めて生まれる】
というもの。
そしてその感情や感覚、
イメージについては、
【これまでの過去の経験に
基づいているものである】
と言える。
・そのように考えると、その感情や感覚、
イメージをより一層研ぎ澄ませるために、
毎日を【修行の場】と捉え、
時々刻々とそういったものを
研ぎ澄ませていくことにより、
【真の経営についての思索】
が生まれるものではないだろうか。
今日も最後までお読みいただきまして、
ありがとうございました。